酔っ払ってま〜す。

最近いろいろな人と会うようにしてるんだけど、

すると酒を飲むわけなので、許してくらさい。

んで、この日記も、日記ですらなくて、ただの「書きなぐり」になってしまうかもしれないけど、

許してくらさ〜い。

 

   *

 

最近、人と会うと、

会う人がそれなりの年齢で、すでに何年もの付き合いのある人であることが多いので、

「オマエって○○なヤツだよな〜」という話になりやすい。

 

で、自分がそういう発言すると、やはり、逆に

「モトギって、○○なヤツだよな〜」と言われる。

 

で、よく言われるのは

「オマエって、いつもどこか必ず醒めてるよな」

だ。

 

確かにこれは自分でも自覚している。

どれだけ酒を飲んで酔っ払っても、

どれだけ興奮して楽しんでいても、

どれだけ悲しみや憂鬱に苦しんでいても、

それとは関係のない「もうひとりの自分」が、自分自身や周囲の環境や状態を

常に「観察している」

 

「観察している目」

これは消えることがない。

それが自分なのだと思う。

要するに幼児の目だ。

 

「観察している自我を失う時」は、死ぬ時だ。

 

   *

 

言い方はめちゃくちゃ悪いけれど、

あらゆる表現者は、かならずどこかで「人を見下しているとも言える側面があるのかも」と思うことがある。

 

世の人がすべて生物学的見地で自分と同格かそれ以上だ、と思っていたなら、ダーウィンは「種の起源」を記さなかっただろう。

世の人がすべて音楽的見地で自分と同格かそれ以上だ、と思っていたなら、米津玄師はアルバムをリリースすることはない。

世の人がすべて容姿的見地で自分と同格かそれ以上だ、と思っていたなら、山﨑賢人はテレビに出てこない。

 

かなり穿った見方ではあるだろうけれど、でも、そうなのかもしれない。

 

あらゆる表現者の根底には「自分には人にない優れたものがある。それを評価してほしい」という気持ちがある。

その気持ちがなくなってくると、人は表現をしなくなる。

 

   *

 

自分はどちらかというと仏教徒なのだけれど、(インド哲学的でもある)

そもそも仏教というのは宗教ではないので(なぜなら神とか創造主とかいう存在にはノータッチだからだ)

アミニズム的な自然崇拝の多神教や、日本人のルーツを祀る「お墓まいり的な」神道などは別にして、

「一神教」というものを信じない。

そもそも、「確証もなく、ありえない確率のほうが圧倒的に高いものを信じる人」を、信じない。

 

※余談だけど、

主にキリスト教徒の国であるアメリカは、なぜ世界貿易センタービルを破壊された時、エンパイアステートビルを差し出さなかったのだろう? 右の頬をぶたれたら左の頬を差し出すんじゃなかったっけ?

でなければ、何のための宗教?

 

 

私が信じているものは「科学」だ。

科学のすばらしいところは

「それは間違い」とわかると、その瞬間に、まるで掌を返すように素直にそれを認めてしまうところだ。

そして「わからないもの」は、「わからない」という大前提で仮説を立てて前進しようとするところだ。

私はその「素直」で、「論理的」で、「前向き」なところが好きだ。

 

 

 

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