昨日(今朝?)は真夜中の1時に起きて5時までゴルフ観戦。

渋野日向子さんが全米女子オープンで2位と1打差のトップで最終日を迎えたのだ。

これはLIVEで応援せねば、と思って、ひさびさの真夜中観戦となりました。

(アメリカの試合が時差的にいちばんキツいね)

2晩続けてなので、ねむいねむい。

 

でも、結果的にはズルズル後退して首位と2打差の3位で終わってガックリ。

朝の5時からまた寝床に入って寝ましたとさ。

 

やっぱ、どれだけ粘ったとしても、

大事なところでスーパーショットを放つなり、超ロングパットを入れるなりしないと

メジャー大会では優勝できないんですね。

優勝者は、あがり3ホール、スーパーショットで連続バーディーですもの。

「優勝するのはあの選手しかないでしょ」ってカンジで諦めもつく。

(でもシブコ、これからも応援してるよ!)

 

 

人の応援って、ほんと疲れるわ。

それがラグビーワールドカップ日本代表みたいな結末だと(優勝したわけじゃないけど)

歓喜の脳内ホルモン大爆発で「報われた」ってカンジなんだけど、

そうじゃないことのほうが多いので、

僕はあまり贔屓の選手とか球団とかを持ってスポーツ観戦はやらない。

(ドーハの悲劇は、僕の脳内悲劇でもあった。まだあの感触覚えてる)

「日本人が世界の大舞台で、活躍できるかどうか」という大事な試合しか

本気で応援していない。

でも、なぜ日本人だと「応援しよう」って気持ちがここまで強くなるんだろう?

 

ちなみに、全英ゴルフの時の渋野日向子さんの時も

松山秀樹さんの初優勝の時もそうだったけど、

こういう「日本人の優勝を願って応援するゴルフの試合」っていうのは、

ふだんのゴルフ観戦とは、まったく別物。

別のスポーツというか…、

いや、スポーツですら、ない。

 

シブコのパットに「入れ!」と叫ぶのは、まあ、いいとして、

それ以外の選手がパットを打つたびに「入るな!」って願ってしまうのは、

ゴルフをやる者としては「あるまじき行為」だと感じてしまう。

つまり、あるまじき観戦方法をしてるので、

別物に感じてしまうのだ。

まあ、しかたないけど「ゴルフを観てる」ってカンジではないなぁ。

 

 

 

そして、真夜中の応援を終えて、思った。

人の応援してないで、自分の応援をしてみよう、と。

 

自分がどれだけテレビで応援してても、それは、届かない。

 

本当は、

衆議院総選挙の投票みたいに「塵も積もればなんとやら」くらいの素粒子的な重みで

人々の応援が数万、数十万、数百万、数千万も集まれば

メディアを介してそれが選手の「後押し」をすることがわかっているし、

 

さらに言えば、会場で声を出して応援して、それがダイレクトに選手の耳に届くなら、

それがわずか数十、数百の数でも、選手のモチベーションに明らかに作用する。

だから世間では「みんなの応援が力になりました〜」みたいなやりとりが美化されて

「大事なもの」として扱われている。それはわかってる。

 

でも現実世界の実感として、

誰も知らない世界の片隅で、独り、真夜中のTV画面の中のロングパットに「入れ!」って叫んでも、

そのパットは入らない。

いや、

「入る、入らない」の、どちらにもまったく影響することがない。

 

僕の応援は、ほぼ、意味がない。

影響力、ゼロだ。

 

でも、自分で自分を

「あきらめるな、まだやれる、頑張れ!」って応援した場合、

その応援は、テレビの中にいる人を応援するのとはぜんぜん違って

自分自身に、ものすごい力を与えてくれることを知っている。

 

真夜中のTVで人のプレーの応援することに比べたら、

およそ数千万倍のパワーがあるし、ダイレクトにそれは反映される。

 

先日のテニスで逆転した時も、そう思った。

逆転したきっかけは、わずか1ゲームしかとれてないゲーム終盤の自分のサーブの時、

「あきらめるな、まだ逆転できる、頑張れ!」って自分で自分を応援した、その時だ。

あの時、自分を鼓舞しなければ、明らかに、簡単に、負けていた。

 

自分への応援は、めちゃくちゃ意味がある。

効果がある。

テレビ観戦の応援と比べたら、何千万、何億倍もの効果と、確実な影響力。

 

これをしないでおくのは、もったいなくないか?

 

渋野さんの応援をしていて、それが終わって寝床に入る時、

こんどは、自分で自分を応援してみよう、と思った。

そしてその応援をするためには、

何かの目標に向かってもういちど、真剣に「打ち込んでみる」ことが必要だと思う。

 

ポチッポチッとね!

 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 心のやすらぎへ

硬式テニスというものを始めた。

…というより、25年ほどやっていなかったテニスを再開することにした。

 

15歳の頃にテニス好きな兄につきあって始めて、すぐに夢中になって、

毎週末ごとにテニスコートに通いつめて、近くのテニススクールにも通って、

20歳の頃にはじめて市民大会のダブルスで優勝して、

そのあとは東京や神奈川の大会にまで足を伸ばしたりして、かなり本格的にやっていた。

(中学生だった松岡修造の兄弟とダブルスの試合をしたことがある。当時から有名人だった)

ボルグとかマッケンローとかアガシとかサンプラスとかがいた時代ですね。

いやあ、懐かしい。

21歳〜24歳頃までは、そのテニススクールでコーチをしてバイト代も稼がせてもらっていた。

 

で、30歳の頃に試合で勝てなくなってきて、それが悔しくて、旅にも出たのでそれを機にやめて、

(覚えている。県大会の1回戦で知らない高校生に体力差で負けたのだ)

興味はゴルフに移ったけど、

ゴルフだとあまり「体力づくり」にならないし、少し飽きも出てきたので、

友人とひさしぶりにテニスをしてみたんだけど、これがなかなか面白い。

 

…で、

およそ25年ぶりに古巣のテニスクラブに再入会することにして

今日(13日の日曜日)で、3回め。

 

いやあ、ボロボロですわ(笑)

 

もう、これはテニスではなくて「リハビリ」

アウトが怖くて強くボールを打てないし、サーブは入らないし、ボレーも当たらない。

足なんか、ぜんぜん動いてない。

そもそもグリップの持ち方(フォアハンドの握りの位置)を忘れてる。

 

でも!

これがですね、1回め、2回め、3回め、と練習とプレーを重ねていくとですね、

とんでもない速さで「思い出して」くるんですわ。身体が。

 

それがもう、楽しくて楽しくて、たまらない。

1球打つごとに修正を重ねて進歩しているのがわかる。

これは、ここ数年ではいちばんと言っていいくらいの「楽しさ」だ。

 

プレー再開時には「アンタ初心者?」みたいな状態だったのが、どんどん球を打てるようになってきて

「オレ、上手くなっている! 先週よりも!!  先々週よりも!!!」

っていうカンジが、高校1年生の頃に上達していったスピード感と同じか、それ以上!

テニスそのものに対する興味は高校生の頃のほうがあっただろうけど、

上達のスピード感は今のほうが早い。

どんどん、自分の身体と運動神経に対して自身が蘇ってくる。

 

本当は「上達してる」んではなくて「思い出している」が正解なんだけど、

なにしろ25年ぶりで、あまりに酷い状態からの再スタートだったので

脳内では「上達してる!」って勘違いしちゃってるんですよね。

 

でもその「素敵な勘違い」は、たまらないですぜ! 

こんな楽しみがまだ残っていただなんて!!

 

 

「まだ伸び代がこれだけある」というのが、

自分のピーク時だった26歳の時のプレーから年齢ぶん差し引いてイメージしたとしても、

めちゃくちゃある。

そして、そこに到達する方法を、僕は知っている。

 

「自分に伸び代がこんなにも、ある」と実感するということは、

特に自分の年齢にしてみると、すばらしい「希望」ですね。

 

   *

 

テニスクラブには昔から一緒にやってた人もまだかなり残っていて、

みんないいお歳になっていたんだけど、

ものすごく歓迎してくれて、嬉しかった。

(テニスのルールとか、コロナのせいで握手がなくなったのとかの変化も面白かった)

 

特に今日、片隅のベンチで座っていた70代の方と目があって、

「あ! Sさん!!おひさしぶり!!」

「ああ!! 覚えてる覚えてる、またテニス始めたの !?」

みたいに懐かしい話になって(非常に仲がよくてお世話になった人なのだ)

一緒に組んでダブルスの試合をして、

1- 4から逆転して、始めての勝利を手にできた。

とにかくめっちゃ嬉しい。

(テニスという競技のいいところのひとつは、大逆転勝利がたまにあるとこだ)

 

Sさんはスゲエ、いい感じのジイさんになっていた。

10年後、20年後、30年後の「ジイさんとしての輝いているモデルケース探し」がもはや趣味である自分から見ると、Sさんは、かなりイケてるジイさんだ。(モテそう)

 

アタマのかなり薄い白髪で、あいかわらず話は長いんだけど(笑)

顔のシワの感じとか、目元とか、喋り方とか、体躯とか(筋肉がすばらしい)、優しさとか

紳士的なところとか、男らしさとか、好奇心と進歩したい気持ちとかがまだぜんぜん旺盛で、

とにかくぜんぶ、いいカンジ。

ハッキリ言って、カッコいい老人。

 

なんでも、ジャズドラムを20年以上やっていて、いわばセミプロ。

ドラムのための体力維持のためにテニスもやってるんだけど、

むしろ、25年前よりも上手くなっていた。

 

いやあ、カッコいいジイさんに巡り会うと、嬉しいなぁ。

しかもそれが仲のよかった人との再開だなんて、嬉しいなぁ。

1- 4から諦めずに声をかけあっての逆転勝利、嬉しいなぁ。

古巣のテニスクラブの入会、嬉しいなぁ。

 

オレ、テニスやってて、よかった。

今日はとにかく、めっちゃ嬉しいなぁぁぁ。

 

 

みなさん、「昔とった杵柄」もういちど取ってみてはいかが?

 

 

瞑想とりいれて4日め。まだ続いている。

でも最初にやった時が「100%集中できた瞑想」だとすると、

それから比べるともう、雑念わきまくりで、精度は30%くらい。

 

なにしろ最初の時は「呼吸の観察だけに集中する」ってことが、めったにやったことがないことだったので、

「呼吸って面白いな」っていう興味と発見がたくさんあったのよ。

だから、それにめっちゃ集中していて、「無」にはならなかったけど「イチ」にはなったのよ。

でも、それに飽きてしまったわけね。

 

もうアタシ、呼吸に興味は、ない。

 

すると、湧いてくるわ湧いてくるわ、

もう、3秒に1回、雑念わきまくり。

「人間って、何も考えないことができない生物なのね!」って、あらためて再認識。

 

…なので、

しかたがないので、雑念が湧いた! と思ったら、それを「払う」ということに集中することにしてみた。

すると「雑念」の中の大部分を占める「思考」というものの姿が、あらためて見えてきた。

 

「思考」って、やっぱり言語の姿をしてるんですよね。

それは「文字」ではなく、まるで小さな声で薮の中から聞こえてくるテレパシーのような自分の声。

それが「思考」

でもそれって、日常では「今考えているまさに “コレ” が思考なんだよなー」とかっていちいち認知しないじゃないですか。なにしろ自分の声ですし。年がら年中、数秒ごとに聞いてるわけですし。

 

でも今は瞑想中だし、雑念をそのままにはしておけないので「払いのける」ために、

こんどは「思考」に集中してみてるわけですよ。「思考」に取り込まれちゃうとそこから連鎖的に延々と考えちゃうから。

でもね、「思考」とか「雑念」とかは言葉の形をもって、アタマの中に脈絡もなく瞬間的に浮かんでくるわけですよ。

 

たとえばこう、瞑想してるじゃないですか…

 

 

呼吸に集中、呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸……

あ、メールの返信忘れてた、でもあとでやればいいか、いや… 喝ーッ!

呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸……

そういや鬼滅の刃に全集中の呼吸っていうのが… 喝ーッ!

呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸……

空調の音がうるさい。耳栓買ったほうが… 喝ーッ! 

呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸に集中呼吸……

ホントひとつに集中するのって… 喝ーッ! 

呼吸に集中吸に集中呼

ああ、雑念ってひっきりな… 喝ーッ! 

呼吸に集中吸に

なんかモグラ叩きみ… 喝ーッ! 

 

 

そう、まさにこれは「モグラ叩き」のようなのだ。

 

でも、慣れてくると、モグラのアタマがちょっと動くだけでそれを排除できるようになってきて、

最後には

(思考っ

っていうくらいの言葉のカケラが見えただけで、それを払い退けられるようになってくる。

最後は脳内の思考フィールドに出現することがわかってる「言葉の最初の一文字」を虎視眈々とサーチすることに全力をつくすようになってくる。

 

でも、そんなバカみたいな単純なゲームを5分くらい脳内で続けてるだけでも、

それなりにアタマの中がスッキリとして、精神とホルモンのバランスが整ってくる。

やらないよりは、ずっとマシ。

 

でも、こんなことやってていいんですかね?ww

 

 

 

あとね、

瞑想って、アタマと精神と身体が落ち着いた「いい状態」になるのは確かなんだけど、

酒とかの薬物と違って、長続きしませんね。

 

めっちゃいい感じになったとしても、(その後の環境によるけど)

だいたい1時間くらしたら、またいろんな思考でギッシリのアタマに戻っちゃうんですよね。

なので、1日に3回くらいは必要だと思いました。

 

寝る前にやるといいね。

心臓の鼓動がおさまって、寝酒がいらなくなる。

 

あとね、発見。

瞑想のあとにスマホゲームやってみると、驚くほどの高得点が出る。(ツムツム自社調べ)

…というか、低い得点が出る気配が、まったくない。

スポーツ選手は瞑想ぜったいやったほうがいい。

 

 

なるほど、そうか。

おおかたの人は「欲の強い人」に惹かれるんだな。

自己中心的な強欲、という意味ではなくて、

自己実現欲求にまでまっすぐに進もうという人、そしてそれを実現してる人。

…って書いちゃうと当たり前の言葉すぎて、伝わらないか。

 

   *

 

最近、本はキンドルで読んでいる。

活字がインクと紙の匂いをともなって手の中に存在する「書物」のほうが

だんぜん所有感として「嬉しい」んだけど(どこまで読んだか、どれだけ残ってるかもわかるし)

でも、本屋さんが皆無なんですもの…

 

キンドルで8冊一気に買ったけど、

2冊は学術的な本で、(「ホモサピエンス全史」面白いよ)

1冊は経済の本で、

1冊は仏教の本で、(「反応しない練習」ためになるよ)

あとの4冊は小説だ。(筒井康隆さんを読んでいる)

 

本って、安いなぁ。

480円に対する価値が、こんなに高い商品って、他に考えつかないほど。

「サピエンス全史」は1881円だけど、それでもこの情報量をこのお値段はとんでもなく安い。

あんまり価値を感じない失敗もたまにあるけど、まあ、それはおいといて。

 

ちょっと違う意味だけど、マンガをネットで読むと、高い!

マンガそのものの価値の意味ではなくて、

マンガはゲオで安く借りれるし、スーパー銭湯でガンガン読めるから。

 

でもマンガって「続き」がどうしても読みたくなる麻薬的なものなので、

いちどネットで第一話だけ読んでしまうと、どんどん課金してしまう。

「買ったほうが安いやんけ!」

 

 

 

 

   *

 

価値の話になったけど、

Youtubeって、ほんとすごい。

 

人間として半世紀以上生きていると、

「昔のほうがよかったなぁ〜。生きづらい世の中になったなぁ〜」って思うこともあるけれど、

よくなったこともたくさんある。

 

そのうちのひとつが、ネットとかYoutube

Youtubeで、大学の講義なみの知識が、1日でものすごい量、手に入る。

しかも、無料。

(Youtubeの広告から何かを買ったことってないんですけど? ある?)

20年以上前と比較したら、信じられないほどの「大盤振る舞い」

 

昨日も、子供の頃からの積年の謎だった、

「光の速度って、どうやって測ったの?」という疑問が解けた。

(ネットや動画で学ぶ時は、3人以上の意見を聞きましょう!)

「古代の戦争ってどのようなものだったんだろう?」という概要とイメージも先週もらえた。

(韓国映画だけど「安市城 グレート・バトル」っていう作品、古代の戦争の再現度ではめちゃスゴイよ。日本の映画はほんとショボい)

 

大学って、もう、いらなくね?

だって、今の大学ってみんなオンラインでしょ?

父も兄も大学で教えてたけど(兄は上智大学のオンラインでちょうど今も講義してる)

同レベル以上の講義をする人って、Youtubeにゴロゴロいるもんね。

 

趣味のゴルフも、ネットで学んでるね。

だって、日本ツアー通算5回の賞金王がくわしく無料で教えてくれちゃったりするんですもの。

 

今、「学ぶ人」と「学ばない人」の格差って、ものすごく広がってる気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

友人がヘッドスパと瞑想を組み合わせたお店を開業したので、

ヘッドスパがてら「瞑想」というものをやってみた。

 

「瞑想」というものが「いいよいいよ」という話はよく聞いていたけれど

なかなか集中ができないし、習慣にならないし、

なによりも「やり方」がわからない。

 

でも初心者は「呼吸を観察することだけ」に意識を集中するんだ

と教わってやってみたら、

これがなんとまあ、アタマの中がスッキリ!

 

なるほど、みんなが「いいよいいよ」というだけのことはある。

酒とか精神安定剤とかってアタマの回転数を落として、

リラックスさせたり眠らせたりするのに、つい飲んでしまいがちだけど、

「瞑想」というものが習慣になればお払い箱になれそうだ。

 

今日は瞑想、2日め。

さあ、持続可能か、どうか?

 

 

 

 

なんか最近、本当に人生が変化している。

焦りやイライラやストレスがめっちゃ減って、

欲に振り回されることもなく、自分を責めたり、人を悪く思ったりすることがかなりなくなった。

ウツとかになる気配も、ないなぁ。

 

このあいだ「ああ、どうせ自分は…」みたいなことを考えちゃったことがあって、

その時に「ハッ!」と思った。

うわ、この感情、めっちゃひさしぶりやんけ!

 

自己肯定感がぐんと増しているのだろう。

自己憐憫という習慣が、なくなった。

 

 

SNS全般に言えることだけど、

こういう「人前で書きたい。自己存在をアッピールして誰かと繋がりたい」

という欲求は、「マズローの欲求五段階説」で言うところの

「社会的欲求(社会とつながりたい)」と「承認欲求(人から認められたい)」という段階そのものなので、

ある意味「若い価値観」だと思う。

 

私はもう「人と優劣を比べて幸福を感じる」という世界から「イチ抜けた」と決めて、

それでめっちゃ苦しみが減っているので、

なんだか、あまり興味を感じない。

お金持ちも有名人も、ぜんぜん憧れない。ほどほどに持ってりゃ、それでいい。

 

瞑想とか量子力学とか脳科学とか宇宙とか、そういうまだ知らない世界を探求して、

知り得たことが、そのまんま死んだら消えてなくなっても、いい。

 

ああ、発見の喜びは、まだぜんぜん健在だな。

…というか、人生の中でいちばん今が勉強してるかも。

 

あ、いや、訂正。

野心、ひとつだけ残ってた…

それが「自己実現」ってヤツか…。

 

 

 

 

 

でも、それと同時に、こうも思う。

これって「野心」がゼロになったのでは?

まるでお坊さんか仙人か老人にでもなった気分だ。

 

少年よ大志(野心 ambition)を抱け、というけれど、

 

幸せになろうとして自己肯定感を上げたあとに待っている世界に生きている人を

世間のみんなはなかなか認めたがらない。

 

たとえば、老人は、本当の幸せの方法を、ごく自然に獲得している人が多いような気がする。

近所のオバちゃんとか、幸せそうだ。

でも世間は老人の世界を嫌ってる。

 

「いつまでも、決して満たされることのない幸せ」を必死で追い求めて

「いっときの成功を掴んでいる、その瞬間の人」だけ賞賛されている気がする。

 

 

年配者の薄毛の人に朗報!

「リアップ5」は、効く。

薄毛、というか、地肌が見えやすくなったのが、なくなった。

2ヶ月で3本、2万円ほどかかったけど。