「自分は幸せになるために生まれてきたんだ!」と気づいてから、

ホントに毎日が生き生きとしてて、楽しく、

自己肯定感が増していて、不安が、ない。

 

なぜ、オレは今までそれに気づかなかったのだろう?

なぜ、そういうふうに考えられなかったのだろう?

この数十年は、何だったんだろう?

オレは、バカなのか?

 

この考えはものすごくシンプルなので、

決して忘れないし、

不安とかネガティブなこととか、うまくいかないこととか、

いろいろ考え始めそうになった時でも、

「まあ、今は幸せになることだけを考えよう」と考えると

まるで特大の濡れた雑巾で黒板の小さな文字をぜんぶきれいに拭き取ってしまうように

アタマをクリアにしてくれる。

「黒板消し」のように残りカスが出ることもなく、きれいサッパリと。

(かといって、すぐに幸福になれるわけではない。ただ不幸になりにくい)

 

これまで…

生きてゆくうえで大事であろう「小さな気づき」を何度も得て、

それで数ヶ月幸せになったりしたかもしれないけど、

本とかに細切れに書いて悦に入ってたりしてたかもしんないけど、

今回の気づきは、その集大成なのかもしれない。

こんどは末長く使えそう〜。

 

なんといってもシンプルだ。

「なんでオレは生きているんだろう?」という、

人類が誕生して以来の深淵なる「問い」にも即答だ。

 

「幸せになるためだよ。何言っちゃってんの?」

みたいに。

 

それで、ご納得。

もう、あらゆる哲学者の言葉は、いらない。心理学者もお払い箱。

究極で言うなら、人のご意見無用。もう決定。

 

そして、「今日も幸せになることだけを考えよう」と考えてると、

どんどんポジティブな考えが浮かんできて、

どんどん行動的になって、

どんどん人との関連性がうまく行くようになって、

悪いことが、ひとつもない。

何かひとつうまくいかないことがあっても、

「他のことで補う時間ができた」みたいに考えられて、

「やるべきことやって、あとは他のことで補おうー」みたいに考えられて、

それもまた、ポジティブ。

 

   *

 

そして、そうやって生きていると、

「幸せとは何だろう」という

BUMP OF CHICKENが言うところの「幸せの定義」まですんなりと出てきてしまう。

 

私にとって「幸せの定義」とは、

 

・愛

・情熱

・自由

 

その心の中の混合作用だ。

「自己肯定感」というのを入れようかと、ふと思ったけど、

結局その3つの円の交わるところが最大の幸せであり、

幸せ=自己肯定感 なのだと思う。

幸せというのは、結局のところ自分の心が生み出すものだから。

 

金?

それは「自由」に含まれる。

 

健康であること?

それも「自由」だよ。

 

性欲?食欲?睡眠欲?物欲?

それもまた「自由」だね。与えられないと不自由だからね。

 

良質な人間関係?

それこそ「愛」だよ。

 

夢があること?

それは「情熱」だよ。いや、けっこう中心部かな。

 

発見?探求?好奇心?

それは「自由」と「情熱」の交わったところで、少し「愛」に近いところかな?

 

意義?

それはド真ん中だね。

 

人生を味わい楽しむ?

それも真ん中、やや「自由」よりだね。

 

生きがい?

それは「幸せ」とほぼ同義だよ。

 

すんごいことにオレ、気づいちゃったなぁ〜

 

え"? みんなもう知ってたの !?
っていうか、こんなこと、どーでもいいか。メモがわりでした〜

どうやらオレはこのブログ(ゆるゆる日記のこのシーズン)に何かを書こうと思った時、

自分のキャラクターとはちょっと違う、

…いや、自分のキャラクターの中の「ちょっとトゲのある部分」にフォーカスして

書く傾向があるようだ。

 

もしかしたらSNSというものを意識しているのかもしれない。

「ちょっとだけ炎上させてみたいかも?」みたいなカンジかな。

でも、これだけ読んでる人が少ないんじゃ、種火すら起こせない(笑)

 

   *

 

イソップ童話の続きを書く。

 

イソップ童話にモノ申す。

「ウサギとカメ」の話を小学校の教科書に載せた人にモノ申す。

その話を道徳の教材として、なんの警戒心もなく壇上で生徒に読み聞かせた教師たちにモノ申す。

 

ウサギは、断じて、悪くない。

カメも、ウサギも、どちらも悪くないし、どちらの方法論も、断じて間違いではない。

「カメのやりかたのほう正しい」と教えるのは、明らかに偏見だ。

 

カメは速くは走れない。

ウサギは長時間、自分の速度で移動し続けることができない。

動物の「種」として、そういう習性であり、それが彼らの個性なのだ。

 

ただ、その時はウサギが迂闊に眠りすぎただけのこと。

眠りこける前にタイマーをセットして、15分後に起きてまた走り出せば

ウサギが勝っただけのこと。

(教育すべきは「過信せず計画しろ」という点に絞るべきだ)

人には「コツコツ型」と、「集中型」がある。

超集中型の作家やマンガ家は、原稿を脱稿したあとは、12時間眠る。

 

イソップ童話(寓話)は古代ギリシャの逸話を集めたものだけど、

それはその当時の支配階級が、奴隷や労働者階級を

うまくコントロールするために

あるいは、その環境から脱することが不可能な人たちが自分を慰めるために

あえて「偏った考え(偏見)」を誇張して書いた話なのだ。

 

それを真に受けて、同じことを現代でやるのは、

この現代社会がまだ「社畜を大量に生み出す必要性がある」と認めているのと、同義。

 

もっと、きちんとものごとを確かめて、子供には教えよう。

 

   *

 

あと、カンケーないが、

「自分が幸せになることだけを考えて生きる」と気づいてから、

生きていくのが、めちゃくちゃ楽になった。

 

ちなみに

「自分さえ幸せになれればそれでいいのか」という考え方も、

僕に限って言うならば、完全に間違い。(悪人のことは知らない)

自分の半生を振り返ってみれば、

人を不幸にした時は、いつも自分がストレスやらなんやらにまみれて、不幸だった。

自分が幸せだった時期、自分の周囲にもその幸せが伝播して、みな幸せだった。

 

 

#イソップ童話にモノ申す

かなり昔、マシュー・ブロデリックが主演した映画で

「フェリスはある朝突然に」というのがあったけど(内容も忘れてるけど)

 

モトギはある朝(というか今朝の6時半に)突然に飛び起きて、

思った。

 

それは、あまりにも覚醒した瞬間の思いだったから、

「思考」ですらなかったように思う。

 

「ひらめき」のようでもあり、

「啓示」のようでもあり、

「ハタと膝を打つ瞬間」でもあり、

「なんでこんなことに気づかなかったんだろう?」ということでもあり、

う〜ん、

なんというか、そういうのともちょっと違うようなカンジでもあるんだけど、

 

とにかく!

今朝の6時半に、突然、パチッと目が覚めて、

その瞬間に、天井をみつめて、

思った。

覚醒した瞬間なのか、

もしかしたらまだ目覚めていない時からの

脳みそ内のシナプスの電気信号だったのかもしれないけど、

とにかく思った。

 

オレ、幸せになってもいいんじゃね?

 

オレ、今以上に、どれだけ幸せになったとしても、

何も悪いことはなくね?

 

どれだけ稼いでも、

あるいは労働をひかえて楽しみに時間をどんどん費やしても、

恋人を作っても、

どれだけ愛し合っても、

結婚しても、

世界中を放浪したとしても、

世界中のリゾート地を彼女(妻)とめぐり歩いても、

温暖な南国に移住してノンビリ暮らしても、

新たな夢を持ったとしても、

それに情熱を傾けても、

それがオヤジだとしても、

よくね?

 

たとえ離婚して子供がいたとしても、

作家人生で挫折しちゃって読者や編集者をガッカリさせちゃった過去があろうとも、

それでも、全然悪いことなくね?

 

それによって誰かに迷惑をかけなければ、

どれだけ幸せになっても、よくね?

 

それは、「幸せを “求めても” いい」というのとはちょっと違う。

そんな、ほんのちょっとの要求の承諾ではなく、もっと全面的な承認であり、

「幸せに “なって” いい」が正解だ。微妙な言葉のニュアンスだが、はっきりと違う。

 

なにしろそれは、ある朝突然目が覚めた瞬間のことだったから

「その結論がアタマにひらめいた前段階」のことはまったくわからない。

なぜ、そう思ったのかが、わからない。

おそらく夢と関係があったのだろう。

そう! それは無意識からの信号だったのだ。

 

オマエは、今後も、これまでも、どれだけ幸せになろうとも、

それは悪いことではない。

オマエの自己肯定感の低さも、ウツになりやすい気質も、

すべてそれは「オマエの思い込み」なのだ。

「苦しんでいないと悪いことになる」と「深層心理で」思い込んでいるにすぎないのだ。

 

「幸せを謳歌すると天罰がくだる」という嘘の思い込みにすぎないのだ。

人は、幸せになるために生まれてきたのだ。

「幸せになること」は、むしろ使命なのだ。

だから、オマエはどれだけ幸せになってもいいのだ。

むしろ「幸せになることだけ」を考えるべきなのだ!

 

そしてその「思い込み」というのは、

前頭葉で考えたりする「思考」による思い込みではなく、

深層心理の、深〜い深〜いところによる思い込みなのだ。

そうだ、そうだ、オレはこれから、どれだけ幸せになってもOKなのだ!!!!!!

ありがとう!

サンキュー、世界!

 

…と、モトギはある朝、突然に思ったのだ。

 

 

 

イソップ童話にモノ申す。

「アリとキリギリス」の話を小学校の教科書に載せた人にモノ申す。

 

キリギリスは、断じて、悪くない。

アリも、キリギリスも、どちらも悪くない。

凍え死ぬことのない南国のキリギリスは毎日、毎晩、歌を歌って暮らしてていい!

(秋のうちに移動しよう)

それが、キリギリスなのだから。

 

おい、イソップ。

キリギリスのアイデンティティを全否定するんじゃない!

苦労して、苦しんで、生きていないと痛い目にあうという「残酷なテーゼ」を

幼い子供たちのアタマに叩き込んで、一生苦しませるんじゃない!

 

イソップ童話は、全世界で何万人、何十万人、何百万人、

いや、何千万人、

もしかしたら何億人もの鬱による自殺者を作り上げているかもしれないんだぞ!

スターリンよりも毛沢東よりもヒットラーよりも多くの人の命を奪っているかもしれないんだぞ!

恥を知れ!

 

 

 

最近、ひとりぼっちは寂しいせいか、

マスクとか買うついでに、大型ディスカウントストアの片隅にあるペットショップを覗いてしまう。

「犬を飼いたいな」と思ってるからだ。

でも、いつも、どこへ行っても、チワワばっかしだ。

No more Chiwawa!

人類が滅んだら、日本はチワワの王国になるだろう。

 

   *

 

人と会うついでに、その人と映画を見た。

『ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領から日本人へ』

 

 

ムヒカさんというのは、南米ウルグアイの元大統領で、

国連の「持続可能な開発会議」という席上で、みんなが経済発展に的をしぼって意見を出し合っているさなかに

まっこうから「経済発展そのものが幸せではないよ」という熱弁をふるって、

それが話題になって、

日本では絵本にまでなって、50万部のベストセラーになった人。

「世界でいちばん貧しい大統領 来日」として、TVニュースで見た人も多いだろうと思う。

 

 

 

その人の過去と現在、そして日本に来日した印象も踏まえて「日本人に向けたメッセージ」を

ドキュメンタリーの映画として制作し、現在、劇場公開されている。

それを見た。

場所は「シネスイッチ銀座」

銀座の和光の真後ろに、こんな映画館があるだなんて、知らなかった。

 

ムヒカさんは言う。

「人間は成功するために生まれてきたわけではない。幸せになるために生まれてきたんだ。」

「ブランドの服、高価な車を手に入れるために使われるのは金ではなく、時間、だ。その時間は友人や恋人や家族と語らうための幸福な時間を奪うことによって手にした金の代償だ」と。

 

ムヒカさんの主張はシンプルだ。

そして、あくまでも私にとっては目新しい考え方ではない。これまで自分自身が生きて来て、そういう結論にすでに達しているからだ。

 

ただ、ムヒカさんの「言葉」は非常に表現力豊かで、心に刺さるので、

「もう、欲しいものを次々と手に入れるために働くのはやめよう」とか

「金を稼げなかった1日に罪悪感を持つのはやめて、楽しめなかった1日に罪悪感を持とう」などと、

自分自身の決心をうながすには十分すぎる映画だった。

 

ムヒカさんのスピーチは、すでに「説法」だと思った。

キリストやムハンマドのことは詳しく知らないが、

比喩を用いたり、わかりやすく問いかけたりしていて

「苦しみからの解脱」をメインに説いた、釈迦の説法などによく似てる。

これだけ心に刺さる説法をされたら、そりゃ求心力も出るわな。

たぶん、そうやって、「言葉」で大統領になったのだろう。

(若い頃は左翼ゲリラだったそうだ。部屋にチェ・ゲバラの肖像画がある)

 

ただ、

ムヒカさんの話には、ひとつ、矛盾点がある。

矛盾かどうかは、くわしく問答してみないとわからないが、ひとつだけ不可解な点がある。

 

彼は言う。

「我々の闘いは永遠に終わらない。貧しい人を救う闘いは、これからも続く」と。

その「闘い」にもし、いくらかでも勝利したならば、その勝利は「成功」ではないのだろうか?

彼はその成功のために生まれてきたのではないのか、と?

それを彼は幸せに感じてはいないのだろうか、と。

 

人格者で、主張にブレがなく、

人々から尊敬を受けてやまないような人の説法には、

必ず、このような「矛盾」が、ひとつだけ、どうしても出てくる。

私はその矛盾がいつも気になって、質問(問答)してみたくてしかたがない。

 

それは、その人の主張が正しくて(正しそうで)、人格者で、優秀であればあるほど、

矛盾点が際立ってしまう。

 

なぜなら、普通の人の主張だと、矛盾点なんて星の数ほど出てくるので「際立たない」

どうでもいいし、ツッコむ気にもならない。

優れた人物のブレない主張の説法であればあるほど、「ただひとつの矛盾」というものが、

「これが人間という存在の限界なのか」という感じで、際立って見えてしまう。

 

たとえばブッダ(釈迦)。

彼の主張を、般若心境よりさらに短く、20文字以内に要約するならば

「苦しみの根源は固執することにある」となるので、

 

「でも、あなたが困難を乗り越えて説法して回って人々を救おうとする行為は『固執』なのでは?」

という矛盾点だけが際立ってしまう。そして、その回答はまだ得られていない。

 

魅力的で尊敬すべき人物には「矛盾」が、ひとつだけある。

それはこの世と人間がどうしても完璧ではない証なのだろうか?

 

 

「あ〜、大人が恋愛する映画が見たいなぁ」と思ってアマゾンプライムなどで探しても、

なかなか見つからないので、「マディソン郡の橋」を25年ぶりに観た。

この作品は、たしか、ロバート・ジェームズ・ウォラーが書いた原作のほうを先に読んでいたけど、

映画化にあたり、そのイメージの完璧な一致性にびっくりした作品だ。

 

 

アイオワ州に住む主婦フランチェスカと、世界中を飛び回るフォトグラファー、ロバート・キンケイドのたった4日間の、

はっきり言ってしまえば「不倫の恋(しかしそれは生涯に1度の確かな愛)」の物語で、1995年の作品なんだけど、

その頃の自分としては「不倫であることの苦しさ」のほうを見るのが辛くて…

 

…でも、舞台は一軒家の農家と、その周辺の街だけ、

登場人物もほぼ主人公たちだけの、出来事やストーリー展開のない「狭い世界」での恋愛話なのに、

その「人と人との出会いが恋愛に発展していく様のこまかな描写」が、とほうもなく秀逸で、

小説も映画も、とても好きだった。

さすが、世界的に大ヒットしただけのことがある。

(ロバート・ジェームズ・ウォラーの本はもう1冊買った)

まだ観ていない人はおすすめだ。

 

そうそう、出逢いと恋愛って、こういうふうに始まるんだよなー、こういうふうに深まるんだよなー、

というドキドキワクワク感が、

主人公たちが動物的な行動をする若者ではないだけに、よりリアルに伝わってくる。

さすがクリント・イーストウッドと、メリル・ストリープ。

名優って、だてに名優の名を冠しているわけではないですね。

 

原作の中ではフランチェスカは45歳、ロバートのほうは51歳なんだけど、

映画の中のクリント・イーストウッドと、メリル・ストリープはどうなんだろ?

…ググってみました。メリル・ストリープは撮影時44歳で、

クリント・イーストウッドは、なんと65歳です!

 

しかし、この65歳の劇中のクリント・イーストウッドの男の魅力はなんなんでしょう!

たしかに初老なのかもしれません。

でも、柔和で、自由で、ユーモアがあり、体も鍛えられていて、

そして、なによりも「紳士」です。

 

年齢を重ねるごとに、周囲に対して「こういう歳の重ね方をしている男性に憧れるな」というモデルが

日本の中でほとんどみつからない自分にとって、

マディソン郡の橋の中のクリント・イーストウッドには惚れました。

 

ちょっとでも気を抜けば、フィジカルは加速度的に劣化して、ハゲて太って、

目的もなく過ごしてパチンコにハマって、横柄にふるまうことが「普通」の年齢の中で、

男性として輝くためのひとつの希望、

それが「ジェントルであること」だと思います。

(もちろんフィジカルは鍛えてね)

私は、そう、なりたい。

たとえ中年男性であっても、経験を糧にした心や体や収入なんかに余裕がある本物のジェントルマンは、

「人間」という大きなくくりの中でも、私は20代アイドルと比べても見劣りのしない「魅力的な人間」だと感じます。

この映画の中で、クリント・イーストウッドが、それを証明してくれています。

(20代アイドル主演映画の何十倍もの興行収益を上げてます)

 

映画の中盤から重くのしかかってくる「不倫」という問題は、

私自身としてはあまり好きではないので、それを完全に除外した状態として、

映画の序盤、出逢いから、二人が心を開いて、惹きつけ合うシーンまでを観ていると、

「ああ、もういちど誰かを心の底から愛してみたい。愛されてみたい」という気持ちがフツフツと湧いてきますし、

「よし、生涯にいちどの愛、この人の会うために自分は生まれてきたんだ」という女性を、

必ずやみつけてやるぞ、という気持ちを強くする自分を感じます。

 

   *

 

でも、現実はそんなふうには簡単には見つからないんですよねー。

(劇中でも「そのような恋が存在することすら知らない人のほうが多い」と言ってました笑)

 

もちろん身近でも探していますが、コロナ化の現在ではほぼ完全に「婚活サイト」にシフトしていて、

昔だったら抵抗感はあったんですが、今はありません。

なにしろ街中の女性はすべてマスクをしているので、心ときめく出逢いの確率は激減しています。

なので今後、「サイトで恋人をみるける」ということは、むしろ一般化するのではないかと思います。

 

しかし、

実際問題、婚活サイトの中でも、マッチングまではうまく行くんですが、

その先で挫折する人が多いです(マッチングすらしない人も多いみたいです)

 

たとえ、人気の高い美しい女性とやりとりを重ねていても

「このサイトでゴールインする人なんて、ほんとにいるの?」という話題になると、

共感されることが多いです笑

 

それはなぜだろう? と思い、

20代30代(10代の時は当然)何も考えずに、まるで本能のまま動物のように恋愛感情に突っ走っていた時期を振り返り、

恋愛というものの構図、成り立ち、成功する要因、などを科学する気持ちで

よーく考えてみると、

そこ(婚活サイト)にはひとつ、大きな問題があることに、私は気づきました。

 

   *

 

まず、

人は、どのように恋に落ちるのか。

その恋が成就して「愛」にまで発展するためには、どのような過程を踏むのか、を、

これまでの通常の恋愛と、婚活サイトの恋愛のやり方を見比べてみると、

 

【20代の恋のしかた】

(1)

学校とか職場とか近所とか友人関係とかで「見染める」

つまりその女性の「フィジカルな吸引力」に捉えらえる(すでにここで恋に落ちることもある)

(2)

会話などを重ねるうちに、その人の人格や考え方、価値観などのフィーリングに同調する

相手からも同様に思われていることに気づいて有頂天になる

(3)

それらの会話の中から「住んでいる場所」とか「趣味」とか「年齢」とかの

「条件や情報」を得て、それが一致していると(ほんとは一致してなくてもいいのに)

「運命の人だ」などと思い込む。(あ、それ、俺も好き!私も!みたいなの、経験あるでしょ?)

 

…ところが婚活サイトとなると、その順序が、まったく逆になるんです。

すなわち、

 

【サイトを利用した恋のしかた】

(1)

「条件検索」や「プロフィール」や「コミュニティ」などで、まずは

年齢や、居住地区や、趣味や、仕事や、収入などの「条件」が合致する人を選び、

さらにそこから選別する

(2)

選別された方に「興味がある旨」の「いいね!」を送信して、メッセージを送り、

マッチングしたなら、やりとりを開始して、考え方や価値観のフィーリングを、

あくまでもTEXT上でさぐりあう

(3)

それでやっと「お会いしましょう」となった時、(すぐお会いしたがる方とは価値観が合わないことが多い)

その時になってはじめて、

20代の時には、いちばん恋愛で重きをおいていた

「フィジカルな吸引力」が、あるか、ないか、がわかる。

(でも「ない」ことのほうが圧倒的に多い)

 

…という感じなんです。

 

簡単にまとめると、

恋愛の構図にとって必要なものは3つあって、

「フィジカルな吸引力」

「コミュニケーションのフィーリング」

「諸条件」

なんだと思うんですけど、

 

通常の恋愛は、

「フィジカルな吸引力」→「コミュニケーションのフィーリング」→「諸条件」

で進んでいくんですけど、

サイトだと逆進行で

「諸条件」→「コミュニケーションのフィーリング」→「フィジカルな吸引力の確認」

なんですよね。

 

若かった頃は、バイト先のかわいい女の子の、

名前も、年齢も、趣味も、家族構成も、声すらも

何も知らずに恋に落ちていたのに、(で、長距離恋愛になったりする笑)

 

今のサイトでの恋愛事情では

まずはそこから初めてしまうので「ドキドキ」ない、まるで会社の新卒者採用面接みたいなカンジなんですよね。

 

で、「コミュニケーションのフィーリング」が大事なのは、誰にも異論はないでしょうけど

私は「フィジカルな吸引力」も、絶対的に大事で、
それはしかたがないと思ってます。

 

たとえば今まで6人の方とお会いして、

「趣味や価値観なども一致している」「会話もけっこうはずむ」「美人と言っても過言ではない」

という6人だったんですけど、

やっぱり「フィジカルな吸引力」をそこまで感じませんでした。

美人ならいいわけじゃないんです、

ちょっと崩れてていても(失礼!)

その笑顔を見ていると「好きだ! その笑顔、いつまでも見ていたい! また逢いたい!!」

って思えるか、どうか。そこが恋愛に発展するかどうか、だと思います。

 

ひとことで言ってしまえば「また逢いたい」と、毎日思ってしまう人を、人は好きになるのでしょう。

 

「いい人だけど、生理的に無理。ハグはできない」という人とは付き合えませんよね?

でもサイトだと、実際に会うまでの時間が長すぎて、

実際に会ってみても(たとえ写真をあらかじめ見ていても)

「フィジカルな吸引力」を感じる人に会える確率は低くて、

そうするとまた「イチからやりなおし」になるので、

ものすごく時間がかかります。

 

おそらく100人くらいの人とはお会いしてみないと、

恋愛は成就しない気がいたします。

 

そんなことを、最近、ふと、思いました。